先週休みをいただいてモンゴルに旅をし、日本では絶対に見られないモンゴルの自然に触れることができました。東京では全く実感の感じられないこの詩編の言葉の一つ一つが、モンゴルではこのとおりに存在しているのです。詩人が自分の周辺の自然を具体的によく見ており、そこに神の創造の御業が現れているのを見取っている、そしてそれを喜び、感謝している・・・その謙遜な喜びがよく分かるように思われます。

 はじめから4節まで、主なる神の栄光を賛美する言葉が美しい詩として述べられます。ついで創造の原理が解釈されます。主はまず大地をしっかりと基礎の上に据えられ、その次に水を処理された。無秩序で混沌のもとであった水が、創造の御業によって生命の源となったことが賛美されています。続いて、主なる神が地上をどのように豊かに恵まれるかを詩人は語って行きます。家畜のためには牧草を茂らせられ、農耕を営む人間のためには草木を生えさせられる、鳥、野の獣もそれぞれ神に養われていると言っています。

 大草原の数多いバッタを餌に地ねずみが住み、ねずみや野うさぎを餌に、鷲・鷹の猛禽類が空を舞っていました。埃まみれ、砂まみれの旅ですが、どこまで行っても果てがない広さを満喫しました。草原の空はすばらしい青さです。そして太陽は焦げ付くように強く照ります。夜は真っ暗で、月も星も明るく、詩のとおりの自然と人間生活がありました。死も生もすべてが主なる神の御旨のままにあるのです。会って話した人々は、みな「憂国の志士」というタイプで、真剣に近代化を考えています。謙遜に感謝のうちに心豊かに生きているモンゴルの人々でした。

                               


詩編104編
私には希望がある
2002年7月7日